原稿用紙を入れた封筒の重み

封筒、という言葉を聞いたとき、真っ先に思い浮かぶのは「両手」だ。

封筒で何かを送るとき、中に入れるのはほとんどが書類の類であるが、ハガキと違って封筒に入れる書類は、他人に見せられない、もしくは、ばらばらになっては困るというような特別な意味のあるものばかりだ。

それが時に格別な重みのあるものになると、人は片手で封筒を持つことができなくなる。
そこには、両手でしっかりと抱えていたいという愛情にも似たものがあるのだ。

高校生だった私が小説家を夢見て新人賞に応募した時も、数百枚もの原稿用紙が詰まった封筒の両端をしっかりと両手で包んでいた。
春のまだ寒い時期だった。郵便局への道のりは、徹夜続きの疲労のせいで余計に長く、空気は冷たく感じた。

小説家になろうと思ったのは、高校1年生の冬のことだった。きっかけになったのは、大好きだったファンタジー小説だ。

幼少期の頃からファンタジーの世界が好きだった私は、様々なファンタジー小説を読んで育った。頭の中は物語の世界に出てくる妖精や魔法のことでいつもいっぱいだった。

そんな生活の中でいつしか自分の中にも物語の切れ端のようなものが浮かび、小説に書きたいと思うようになった。最初から小説家を目指していたのかというと、そうではなかった。ただ、自分の中にあるワクワクした世界を形にしたいと思っただけだ。

中学生になり、私は勉強もそこそこにファンタジー小説の執筆に夢中になった。実際には執筆なんていえたものではなく、今見れば顔から火が出るような文章だったのだが、私は次々と頭に浮かんでくる言葉を書き連ねることを心底楽しんでいた。

そんな私が高校生になり、すぐに突き当たったのが進路の問題だった。大学や専門学校に自分の進むべき路が見いだせなかったのだ。

ある日、私は雑誌の新人賞の応募要綱を見て「これだ!」と思い、応募することにした。部活動をしていなかったので、放課後の時間はほとんど小説の執筆に費やすことができる。早速規定に合った原稿用紙と封筒を買ってうきうきと家に帰ったのだった。

しかし、新人賞に応募できるような作品を書くことは難しかった。それまで自己満足で好き放題書いていた夢物語とは違い、人の感性に訴えるような設定と展開、何より人に見せられる文章を書かなければ文字通り話にならない。私はその段になって初めて「小説の書き方とは何か?」という疑問にぶつかったのであった。

幸い小説の書き方についてのハウツー本が出版されているので参考にすることはできた。起承転結、分かりやすい文章の書き方、段落の分け方・・基本的なことは分かったが、実際にそれらを踏まえて魅力的な文章を書こうとすると、途端にペンが止まった。

それに加えて既定のページ数が多かった。何しろ原稿用紙にして500枚程の指定があったのだ。そこにはまるで、数千メートル級の高山の切り立った壁をいきなり登らなければならないような絶望感があったのだ。

こんな体たらくで新人賞をとることなど到底不可能なことは明らかだったが、それでも頭の中には外に出たくてウズウズしている物語の世界があった。

やるなら今しかない。私はそんな気持ちひとつで原稿用紙を埋めはじめたのだった。

長編小説を初めて書いて分かったことは、手が大変に痛むということだった。1日何時間もペンを握っていると、だんだんと手の筋肉がこわばり痛み出す。本当は適度に休憩を入れるべきなのだが、締め切りが近いため休んでいる暇などない。

なにしろボールペンによる手書きで原稿を仕上げなければならないため、執筆のスピードがどうしても遅くなってしまう。書き間違いがないように気を付けていても、時々文字が抜けて書き直すはめになる。手にはますます余計な力が入り、とうとう腱鞘炎を起こしてしまった。

手がペンを握れなくなって気が付くと、指の数か所に赤黒いタコができていた。ぶよぶよとした皮が半分破れてひりひりと痛むので、絆創膏を貼った。

この頃になるとさすがに家族が「あいつは何をやってるんだ」と気にするようになった。数週間の内に手がどんどん絆創膏だらけになっていくので無理もなかった。幸い小説を書くことを止められることはなかったが、手の痛みのせいで執筆スピードは益々遅くなり、徹夜をしなければ応募の締切日に間に合わない状況に追い込まれた。

徹夜による眠気と手や足腰の痛み、そして何よりレベルの低すぎる文章を目の前にしながら、私はほとんど意地になって原稿を書いていた。小説を書くことに何の意味があるのか最早分からないけれど、自分にとって何かとても大切なことが懸かっているような気がしていた。

応募の締め切り日の前夜、ついに長い物語は終わった。原稿を書き終えたのだ。

私は、原稿を送るための封筒の宛名書きをした。
腱鞘炎による痛みもあったが、それ以上に緊張で手がこわばってしまい、綺麗な文字が書けなかった。

その時の封筒に対する不思議な気持ちを、今も良く覚えている。
「小説を応募しよう!」そう意気込んで封筒を買った時は、ただの入れ物としか思っていなかった。しかし、何百枚もの拙い原稿を書き上げた後にたどりついた封筒は、長い迷路の終わりにある門のように感じられた。

翌朝、私は封筒を両手で抱えるようにして郵便局に出しに行った。

封筒は、原稿が沢山入っているとはいえ、片手で持てる重さだったはずだ。
でも、その封筒を片手で持つには重すぎた。

「お願いします」と郵便局員に汚れた両手で差し出した封筒は、なんだかきらきらと輝いてみえた。